月曜日の朝のオールセインツ・ロードは、定休日も重なっていつもより静かだった。ノッティングヒルの中心にありながら、ポートベロー・ロードのような喧騒とは無縁の通り。バスルームやソファーの生地の張り替え専門店などがいくつか、カフェが数軒、小さなブティックが点在し、角にパブがある。映えを求めて観光客が押し寄せるような場所ではない。捜査には好都合だった。
ロンドン警視庁警部補のミス・キャスリングがウェストボーン・パーク・ロードから角を曲がり、立ち止まった。
目的地に着いたからではない。ショーウインドウがあったからだ。
今日の彼女の衣装は歩行者をなぎ倒せるレベルの肩の尖ったピンクのブレザーのトップ。その下に黒地にゴールドの稲妻柄のツーピース。ゴールドのスタッズで覆い尽くされた、黒革の20センチのプラットフォームブーツ。一本の乱れもない肩の上できっちり揃ったブロンドのウィッグ。
シリアルユニットAT-01、チームの3人目のAT。レイヴン。かつての漆黒の羽は今シャンパーニュブロンド。応用技術ラボ製の紫のケブラーベストを着用。ケンジントン・アンド・チェルシー王立区の住居用駐車指定の看板の上に留まり、彼女に話しかけた。
「警部補、今日は宣戦を告げに来たようなバーバリアンのようないでたちですな。エコなトートが、また粋でよろしい。」
上品なセリフ体でNotting Hillとプリントされた布のトートバッグ。観光客は全員買い、地元民はだれも持たない。ポートベロー名物のバッグ。
彼女はシャンパーニュブロンドのレイヴンをショーウインドウのガラス越しに見ながら微笑んでこう言った。
「完璧なところに1つだけ、隙がほしいのよ。」
ブティックのガラスにバーバリアンとレイヴン、後ろ脚で立つ猫が映っている。
サージェント・ウィスカーズ、正式にはロンドン警視庁自律捜査課シリアルユニット09、AI搭載のロボット猫、ただしミス・キャスリングはただウィスキーと呼ぶ。ブリティッシュショートヘア型、チタン合金のフレームを覆う高密度のブルーグレーのプラッシュの毛並みが10キロ。後ろ脚で立てば60センチ弱。青い目はまっすぐ前を向いている。耳は規定角度。先日ミス・キャスリングがポートベローのマーケットで購入したお揃いのNotting Hillのお土産トートを改造して長いストラップをつけ斜め掛けしていた。猫はバッグを肩にかけて歩きづらいからだろう。
「ミス・キャスリング。」
「ん?」
「住所を通り過ぎています。」
「わかってるわよダーリン、でもあれ見て。」彼女はショーウインドウを指さしていた。チュールで太陽系全体を再現したようなドレスを着たマネキン。「あれはファッションじゃないわ。天文学よ。」
「犯罪現場は8メートル後方です。到着が求められています。」
「ファッションにスケジュールはないの、ウィスキー。」
「犯罪にはあります。通報は午前7時に受理されています。到着が求められています。」
彼女はチュールの銀河にもう一度名残惜しい視線を送り、惑星とプロフェッショナリズムの間で選択を迫られた女のため息をつき、踵を返した。
「わかったわよ。でも帰りに寄るからね。」
「了解しました。」
メリンデは、オールセインツ・ロード中ほどのヴィクトリア朝テラスハウスの1階を占めていた。アトリエ、ブティック、そして住居。すべてが一枚の黒いドアの向こうにある。最近塗り直されたばかりの、艶のある黒。金色のレタリングは、ささやいているかのように控えめだった。ウインドウには、ドレスフォームが2体並んでいた。片方は、黒いビーズを縫い込んだイブニングドレス。もう片方は、いくつもの安全ピンでドレープをかけた、アシンメトリーの白いTシャツドレスだった。
ミス・キャスリングがベルを押した。彼女の肩にはATが留まり、後ろ脚で立つ猫がすぐ後ろにいた。
ドアが開いた。
立っていた女性は背が高かった。ローズピンクの短いボブから覗く長い首、彫刻のような頬骨。
「警部補さん?」
「ミズ・ヘイル?」
「メリンダでいいわ。どうぞ。」
前の部屋は客を迎える空間だった。小さなベルベットのソファ。ローテーブルに分厚いファッション誌が数冊。壁際のガーメントレールに完成品が数着。触れていいのか聞く前に触りたくなる種類の服。ドレスフォームが1体、窓からの光を受けて、紺碧色のコートが静かにかかっていた。まだ未完成なのか袖はついていない。何かを足すか引くか思案中なのだろうか?
ミス・キャスリングの足が止まった。
メリンダが微笑んで奥を指した。
奥の部屋は、テラスハウスの奥行きがそのまま作業場になっていた。間口は狭いが、奥に長い。裏庭に向かって開いたガラスが、前の部屋にはなかった光を引き込んでいた。奥に進むほど明るくなる。布を扱う人間が設計した空間だった。
メリンダが先を歩いた。彼女はかつて自分がランウェイに立っていた側の人間なのだろうか? 世界のトップデザイナーたちの衣装を着て仕事をしてきた側の目線と微笑みが、そこにあった。上から二つ目のボタンからドレープの流れるフリルの白いシルクのシャツ、袖は肘までまくられ、首から掛けているメジャーテープはフリルに混ざって洒落た数字のリボンに見えた。
二人のスタッフが作業台に向かっていた。一人はアイロンをかけ、もう一人はビーズを選り分けている。二人ともミス・キャスリングの登場に一瞬だけ目を上げ、彼女のバーバリアン・ビルドを観察したあと、すぐにそれぞれの作業に戻っていった。ファッションのアトリエで働く人間は、視覚的衝撃に対する耐性が高い。
アトリエは、ミス・キャスリングの内側にあるグラマーとファッションを刺激した。奥の壁にはシルクとオーガンジーの反物が立てかけられている。収納なのか彫刻なのかわからない配置。部屋の大半を占めるカッティングテーブルがあり、パターンの紙片と金のハンドルのシザーが一丁散らばっている。壁際にドレスフォームが3体。それぞれに制作途中の何かがドレープされている。その上の棚には、人間の目が識別できるすべての色。そして、ウィスキーとATですら識別できない色の糸巻きがいくつか置いてあった。
ミッドナイトブルーのシルクの反物に思わず手が伸びた。
「触らないで。」
手が引っ込んだ。
「お客様のものよ。糸のカウントだけで泣くわよ。」
「了解。」ミス・キャスリングは美術館の子供のように両手を後ろで組んだ。それから、前方にあるドレスフォームの着ているドレスを見て言った。「あれ、手ビーズ?」
「そうよ、全部手作業。8週間かかったの。」
「やっぱり泣くかも。」
ウィスキーが咳払いをした。喉のないロボット猫の咳払いは、猫が咳払いをするのとまったく同じ音のする小さな機械的クリック音である。応用技術部にはユーモアのセンスがあった。
「本日はダイヤモンド紛失の件です、ミス・キャスリング。」
「そうね。ダイヤモンド。」
カッティングテーブルを囲んで皆が座った。ウィスキーは椅子の上に立った。メリンダが制作途中のボディスを押しのけ、両手をテーブルに置いた。
「昨日の朝、お客様が石を持ってきたの。10カラット。Dカラー。フローレス。ルースのダイヤモンド。セットされてない、石だけ。お嬢さんのウェディングドレス用。ボディスの中央に組み込む予定だった。センターピースとして。こういう仕事は以前もやったことがあるの。プレシャスストーンをクチュールに。メリンデの得意分野よ。」
「評価額は。」ウィスキーが聞いた。
「お客様の保険で30万ポンド。」
ミス・キャスリングの左のつけまつげが不随意の痙攣を起こした。
「昨日は一人で作業してたの。スタッフは日曜休みだから。お客様が帰られた後すぐにスタジオの金庫に入れた。ロックは鍵で開け閉めするタイプ。今朝、作業を始めるために金庫を開けた。」メリンダが言葉を切った。「空だった。」
「CCTVは?」
「カメラが一台。スタジオの入り口をカバーしてる。」メリンダがカッティングテーブルの上のモニターをこちらに向けた。「映像は確認した。何もなし。昨日の午後6時から今朝7時の間、誰も入ってない。」
「窓は?」
「密閉。二重ガラス。警報装置付き。」
「侵入の形跡は?」
「なし。」
「昨日、スタジオにはあなた以外に誰かいましたか。」ウィスキーが聞いた。
「ナニーもうちのスタッフも昨日はお休みで、私と娘のリリーだけでした。まだ1歳なの。夫はスイス出張中で。」
「ミセス・ヘイル、その金庫とは、あそこにある、青銅色に金の縁がついて、ドアの部分が手の彫刻になっている箱ですか?」
ATが尋ねた。メリンダはブロンドに近いレイヴンが喋りだすとは思わず、少し驚いた。
「そう、イタリアで購入したの。とても重くて床に置いてるの。」
スタジオの奥から音がした。短く、湿った、アナログな音。おそらく鼻からの吐息。何世紀にもわたる選択的交配によって可能な限り非効率に再設計された呼吸器系を持つ生き物だけが生み出せる種類の音。
エメラルドグリーンのシフォンの反物の陰から、フレンチブルドッグが現れた。
小さい。丸い。深い特権意識に満ちている。温かいスレート色。永久に直立したコウモリ耳。世の中の悩みに対する関心が0パーセントの目。
フレンチブルドッグはくたびれたロープトイを口にくわえたまま、ミス・キャスリングを見た。尻尾が回転し始めた。全身が揺れた。短い脚がスタジオの床を蹴って彼女に向かって突進したが、つまずき、滑り、それでも止まらない。罪悪感のかけらもない。後悔の影すらない。ただ純粋な、全身全霊の歓喜。
ウィスキーの耳が前方に回転した。3度。それからさらに2度。
「ミス・キャスリング。この個体は、先日、ポートベロー・ロードにおいてK9セントプロ・マークIII作戦行動中に接触したフレンチブルドッグと同一です。体重、虹彩色、耳形状が一致しています。」
「あらやだ、この子。あの時あたしの大切なお財布に運をたっぷりつけてくれた子じゃない。」
メリンダが首をかしげた。「うちのマイロです。ああ、特に問題にはならないと思いますが、昨日はこの子もアトリエにいました。いつもいるんですけど。」
ミス・キャスリングが指さした。「あなたのパピーとあたしには歴史があるの。」
マイロが座った。彼女を見た。あくびをした。
「大したことではないの、気にしないで。先、進めましょう。」
マイロが耳を掻いた。それからスタジオの床に、ゆっくりと計画的に崩れ落ちた。この会話は自分の格に合わないと判断したのだろう。
「いいわ。」ミス・キャスリングが背筋を伸ばした。「マイロ氏との過去の清算はあとにするわ。とりあえず、ウィスキー、探知機を。」
ウィスキーがノッティングヒルのトートバッグに前脚を差し入れた。中から取り出したのは、カーボンファイバーが貼られたチタンケース。ロンドン警視庁標準フィールドキット、規定サイズ。中から取り出したものは、断じて規定ではなかった。
リップスティック。
正確には、リップスティック型宝石探知機。応用技術部が、隠匿された環境で貴石を特定するために開発したものだ。サイズ、形状、質感はハイエンドコスメティックのリップスティックそのもの。ゴールドのケース。蓋を外すところに、エナメル細工の赤いハートが一つ。ケースの側面にはミニチュアチャームがチェーンでぶら下がっている。ハイヒール、小さな王冠、そしてもう一本のリップスティック。ホログラフィックテープがスパイラル状に巻かれている。
メリンダが見つめた。
「それ……リップスティック?」
「リップスティック型よ。」ミス・キャスリングがキャップを外した。
「応用技術部の最新モデルです。」ウィスキーが言った。「照射したレーザー光が結晶に当たると、その結晶の格子振動の分だけ波長がずれて戻ってきます。ずれ方は鉱物ごとに決まっています。本体を回すと、探知する鉱物が切り替わります。」
ミス・キャスリングが本体を回した。カチ、カチ、と小さな音がして、止まった。
「ラマン散乱ですな。ダイヤモンドなら1332カイザー。いわば宝石の指紋でございます。」ATが付け加えた。
ミス・キャスリングが先端のボタンを押した。
光が生まれた。
七色のレーザーが、箒のように先端から広がった。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。七本の光線がスタジオの床を掃き、壁を撫で、天井を走った。反物の表面をなぞるたびに色が弾け、ドレスフォームのボディーを虹のシルエットに変えた。ファッションアトリエが一瞬、プラネタリウムになった。
奥のスタッフ二人が作業の手を止めた。アイロンの蒸気が静止した。
「これは炭素結晶構造の共鳴周波数を検出するの。」ミス・キャスリングが、まるでリップを塗るような優雅な手つきでリップスティックを掲げ、スタジオをゆっくりと歩き始めた。「あなたのダイヤモンドがこの建物のどこかにあるなら、ダーリン、見つけてみせるわ。」
七色のレーザーが床を掃いた。反物の間を。ドレスフォームの足元を。金庫は、空であることを確認済み。カッティングテーブルの下。糸巻きの棚の裏。窓際。
何もなし。七色のレーザーは七色のまま、忠実に箒のように広がり続ける。
虹色の箒はメリンダを頭から足元まで照らした。
「念のため。」
ミス・キャスリングはそう言い、続けてデザイン書やファッション誌が並ぶ細長い本棚を走査していった。レーザーはオーロラのように時に色がずれて曲線を波打つように対象物を照らしていく。
ドレスフォームの前を通り過ぎた。完成したガーメントのラックの前。メリンダのデスク。大聖堂が嫉妬するウェディングドレスのスケッチが開いたスケッチブック。
何もなし。
そしてマイロの前を通った。
七色が消えた。
一瞬の暗転のあと、パープルが光った。一本だけ。レーザーが鋭い紫の一筋に収束し、マイロの腹部をまっすぐ指した。リップスティックの先端に小さなホログラフィック表示が浮かび上がった。
LOCK ON
ミス・キャスリングがリップスティックを見下ろした。マイロを見下ろした。
マイロが彼女を見上げた。同じ表情。関心0パーセント。
彼女は探知機をウィスキーに渡した。
「解析を実行します。」ウィスキーはリップスティックを口にくわえた。解析は数秒で終わった。
ウィスキーはマイロの腹部を見た。一回まばたきした。
「ダイヤモンドの位置を特定しました。」
「どこ?」
「犬の中です。」
沈黙。
メリンダが口に手を当てた。
「昨日の夕方、金庫を閉める前に石を確認しようとして開けた時かもしれない。携帯が鳴って、同じ部屋のテーブルに置いてたから、金庫の扉は閉めてなかった。本当に一瞬よ。」
メリンダは自分の顔を赤くしながら、一瞬のミスと記憶の正しい情報をまとめるので必死になった。
「フレンチブルドッグに一瞬は十分です。」ウィスキーが言った。
ミス・キャスリングがしゃがんだ。いや、しゃがもうとした。20センチのプラットフォームと武器化された肩パッドのブレザーでしゃがむのは、制御された降下に近い。「マイロは——大丈夫なの?」
ウィスキーの耳が精密な角度に回転した。「石のサイズは直径約14ミリメートル。滑らか。鋭い角なし。現在、下部消化管に位置しています。昨夜の食べ物と混ざっているようです。マイロは昨夜何を食べましたか。」
メリンダがためらった。
「リブアイステーキ。それからカリフラワーのマック・アンド・チーズ。正確にはマック・アンド・チーズじゃなくて、パスタの代わりにカリフラワー。バッファローモッツァレラで。塩なし。」
ミス・キャスリングがウィスキーを見た。ウィスキーがミス・キャスリングを見た。
「あたしより良いもの食べてるわね。」
「ロンドン警視庁の大半の職員より良いものです。」
「じゃあダイヤはリブアイと一緒に下った、と。」
「モッツァレラに包まれた可能性が最も高いです。」
「14ミリのフローレスカーボン、バッファローモッツァレラにコーティングされて、カリフラワーマック・アンド・チーズで食事するフレンチブルドッグに飲み込まれた。これがあたしの人生よ、ウィスキー。これがあたしの仕事よ。」
「はい。」ウィスキーがうなずいた。
メリンダが立ち上がった。「獣医に電話するわ!」
「お待ちください。」ウィスキーが言った。「合理的かつ犬の構造に適した、自然に取り出す方法を今考えています。」
沈黙。耳が前方に回転した。2度。3度。止まった。
「マイロ!こっちにおいで。ミセス・ヘイル、お庭をお借りします。そして、皆さんもご一緒に。」
マイロは目を覚まし、後ろ脚で立って歩いていく猫について行った。
全員が庭に出た。きれいに芝が刈られて、オリーブやレモンの木。イングリッシュローズが赤く美しく咲いている大きな鉢もあった。庭の真ん中にある石畳の上に立ったウィスキーは少し大きな声で言った。
「ミス・キャスリング、お財布を貸してください。」
「……何?」
一瞬、彼女は自分の名前と自分の持ち物がこの場所でどんな因果関係にあるのか理解できなかった。
「ピーチマティーニNA女王のお財布を貸してください。」
ミス・キャスリングは躊躇った。この精度の高い猫ロボットが何を言おうとしているか?おおよその見当をつけて、冷静かつ少しの怒りを込めて尋ねた。
「ダーリン、今何を貸せと?それって、、、、抹茶ラテにマシュマロじゃなくてカツカレーが落っこちてきたようなものを飲まされてるような感覚が、今まさに前頭葉を直撃してる。あんた、まさかあたしに悪夢のデジャブ見せようとしてないわよね?」
「正確には扁桃体です。」
ATが訂正した。
「お財布を。」
パートナーシップが教えたことがある。ウィスキーがこの声を使う時、彼には計画がある。その計画は必ず論理的で、必ず正しく、そして必ず説明をすっ飛ばす。
ミス・キャスリングはノッティングヒルのトートバッグに手を入れた。
リップスティック。コンパクト。令状カード。緊急つけまつげ接着剤。レオパード柄の巾着ポーチ。試供品の香水3本。そして、一番底に、シルクのキルティングケースに挟んで大切に使ってる彼女の財布。
ピンク。ピーチマティーニNA女王の穏やかな微笑み。裏には北パイナップル島の国旗の黄金のパイナップル。07番。限定版。1万個しか作られていない。ポートベロー・ロード事件のあと、洗浄、保湿、かつての栄光を取り戻した状態。
「あのね、」彼女は財布を握りしめたまま言った。「このお財布のために前日から!並んだのよ!」
「承知しています。」
「リバティの前で。1月に。雨の中。」
ウィスキーの前脚は微動だにしなかった。
彼女はため息をついた。財布を渡した。
ウィスキーが丁寧に受け取った。
彼はマイロのところまで歩いた。トコトコと。10キロのチタンとプラッシュが、レモンの木の影を横切った。
マイロの鼻先16センチ、正面から8度の位置に、財布を置いた。
ピーチマティーニNA女王の穏やかな微笑みが、マイロを見上げた。黄金のパイナップルが輝いた。
ミス・キャスリングは眉をひそめた。
ウィスキーは一歩後ろに下がり、待った。
マイロが鼻をひくつかせた。
財布を見た。
何かが動いた。ノッティングヒルで最も甘やかされた犬の恵まれた消化器系の奥深くで、何か古く抗いがたいものが動き始めた。
マイロの目が見開かれた。財布の周りを3度回って、それを跨いで、2歩半前進した。
前脚が大きく開いた。
背中が丸まった。
ミス・キャスリングの目が大きくなった。「カツカレー!」
マイロの目がどこか遠い個人的な中間地点に漂った。完全なるコミットメントの、紛れもない姿勢。
「ああもう。」メリンダが言った。
ミス・キャスリングが両手を頭に乗せた。「あたしのお財布ーーーー!!」
ウィスキーはすでにチタンケースからフォレンジック手袋とエビデンスバッグを取り出していた。ドアを入った瞬間からこの展開に備えていた者の静かな効率性をもってのプロフェッショナル。
自然がその役目を果たした。
出てきたもの。リブアイステーキ、カリフラワー、バッファローモッツァレラがフレンチブルドッグの恵まれた消化器系で代謝された紛れもない生物学的帰結に加えて、そこに僅かな閃光があった。
10カラット。Dカラー。フローレス。設計上想定されていないもので表面はコーティングされていたが、構造的には、ダイヤモンドの常として、完全に無傷。
「あったーーー!!」ミス・キャスリングが指さした。
ウィスキーが動いた。手袋装着。エビデンスバッグ開封。3秒。石は回収され、密封され、記録された。
彼はバッグを光にかざした。中でダイヤモンドが庭に当たる弱い太陽の光を受けて、光を100の色に分解し、ロンドンの憂鬱な雲が混ざったような輝きをしていた。
「ダイヤモンドの洗浄には超音波洗浄機がよろしいかと思います。」
濁ったダイヤモンドを見てATが言った。
ミス・キャスリングはダイヤモンドを見ていなかった。ウィスキーを見ていた。
「あんた……ポートベロー・ロードの時のこと……学習してたの?」
ウィスキーがまばたきした。一回。短いやつ。
「先行する行動データに基づく演繹的推論です。当該犬はピーチマティーニNA女王のお財布との視覚的接触時に即座かつ不随意の消化管反応を示した前例があります。同一の刺激を再適用することで——」
「想像はできたの。直感で、嫌な直感。で、ダーリンいつものように構造を淡々と説明してくれたのね。」
「同一の生理的反応が誘発される確率は、」
「もうわかったわよ。ウィスキー。」
ウィスキーの耳が0.5度動いた。
「30万ポンド。」ミス・キャスリングが言った。「フレンチブルドッグの後方から回収。」
「厳密に言えば、」ウィスキーが言った。「ロンドン警視庁史上最高額の排便です。」
「報告書に書かないで。」
「すでに書きました。」
濁った色の汚物が薄っすらとついた下で14歳の女の子はニッコリと微笑みかけていた。
ミス・キャスリングが財布をつまみ上げた。女王、2度目の汚辱。遠い島の城に住む女王陛下は笑顔で「大丈夫、心配しないで、またすぐに元に戻るから。」そう言っているように見えた。
彼女はマイロを見た。マイロは彼女を見た。同じ表情。同じ謝罪0パーセント。同じ壮大で揺るぎない自己満足。
「マイロもピーチマティーニNA女王に会ってみたいよね。あたしもよ。」
マイロがあくびをした。
「……運がついたわ、2度も。」
「文字通りです。」
彼女はウィスキーを見た。
「3度目は無しよ。」
「マイロの後悔は0パーセントです。3度目の確率は128パーセントです。」
「聞くんじゃなかった。絶望と後悔の確率だわ。」
彼女は汚れたお財布をウェットティッシュで丁寧に拭き取り、ビニール袋に入れて、ノッティングヒルのトートに戻した。ポートベロー・ロードで偵察資料として人生を始めたこのトートは、今や同一のフレンチブルドッグに2度排泄されたお財布の証拠輸送容器になっていた。
「飲みたいわ。」
「午前9時45分です。」
「抹茶ラテが飲みたいのよ。マシュマロ抜き!何も足したくないわ。」
3日後。
ロンドン警視庁の署の受付に小包が届いた。黒い制服の配達員が、白い手袋をはめた両手で長方形の黒い高級な化粧箱を水平に抱えて運んできた。箱の真ん中には白いロゴでMélindeと刻印されている。メリンダからミス・キャスリング宛て。ゴールドのリボンで結ばれている。リボンの結び方は、結び目を分子レベルで理解している人物のそれだった。
ミス・キャスリングがデスクで開封した。
中にはシルキーな肌触りの高級ガーメントバッグが2つに折りたたまれていた。彼女は厚みのあるハンガー部分を持ち上げた。ジッパーだけで彼女の月のオイスターカード代より高そうな感触。
ジッパーを開けた。
「あら。」
コート。フルレングス。構築された肩。角度によってミッドナイトブルーとディープヴァイオレットの間を移動するファブリック。光に秘密をささやくような種類のテキスタイル。手ビーズのカフス。シルクの裏地、繊細すぎてほとんど存在しないレベル。内側の襟にゴールドの糸で刺繍されたラベル:Mélinde。
ミス・キャスリングがコートを持ち上げた。ミッドナイトブルーがふわりと広がって、オフィスの中にあるデスク、蛍光灯、コーヒーのシミだらけの報告書を消し去った。
「うそ。」
ウィスキーが端末から顔を上げた。
「ミス・キャスリング。ロンドン警視庁贈答品・謝礼・接待規定に基づき、20ポンドを超える価値の贈答品は、プロフェッショナル・スタンダード部門の事前承認が必要です。」
「ウィスキー。」
彼女から魔法が解けた。
「今のあたしには、コートしか見えてなかったわけ!スローン・ストリートの高級ブティックにいる魔法にかかってたの。現実に戻さないで頂戴!プレゼントは受け取るためにあるのよ。」
「贈答品は受領・拒否を問わず申告が必要です。」
「ウィスキー、見てよこれ。」
「ファブリックを分析しました。糸のカウント、ビーディング密度、推定約128時間の制作工数に基づき、この衣類の小売価格は1万6千ポンドを超えます。」
彼女はコートを胸に抱きしめた。
「一瞬だけ、一瞬だけ!規則じゃないものになれない?」
「規則ではありません。申告を義務づけられた巡査部長です。」
箱の中に封筒が入っていた。開けると上質紙にインクでメモが書いてあった。
メリンダの手書きで:
こんにちは。ミス・キャスリング警部補さん。
サイズ合うといいんだけど。マイロと私からのお礼です。ルールのことは心配しないで。AIに警察の贈答品規定を聞いてみたの。ポケットを確認して。—— M
ミス・キャスリングがコートのポケットに手を入れた。
小さなカード。もう一枚。
片面に、メリンダの手書きで:
£10 + スマイル
そして文字の横にはインクともインクでないとも言えないもので押されたフレンチブルドッグの肉球スタンプ。小さく。丸く。何かを頼まれて珍しく協力した犬の、丁寧で少しだけ中心からずれた圧で押されていた。
ミス・キャスリングが値札を見た。ウィスキーを見た。
「10ポンドですって。」
「プラス、スマイルつきよ。」
ウィスキーの耳が3つのポジションを高速で通過した。前方。横。中央に戻る。
「現行のロンドン警視庁ガイドラインでは、20ポンド以下の贈答品は、PSDの事前承認なしに受領者の裁量で受け取ることが可能です。」
「つまり?」
「申告価格は10ポンドです。」
「スマイルには金銭的価値がなく、したがって閾値に影響を与えません。」
「じゃあもらっていいのね。」
ウィスキーがまばたきした。一回。長いやつ。サージェント・ウィスカーズ、シリアルユニット09の感情辞典から翻訳するなら、おおよそこうなる:デザイナーが値札と肉球スタンプを用いてロンドン警視庁プロフェッショナル・スタンダード部門を出し抜いた。反論できるサブセクションが見当たらない。
「……受け取れます。」
ミス・キャスリングが微笑んだ。魔法が戻った。
コートを着た。
ぴったりだった。
「サロンに作りかけでかかっていた紺碧色のコートですな。採寸無しできっちり作る技術は相当の熟練の業。お見事。」
彼女のデスクチェアに留まっていたATが言った。
ウィスキーが彼女を見た。ミッドナイトブルーとヴァイオレットの丁寧に織られたファブリック。ビーズのカフス。その下に何を着ていようとコートがすべてを統合していた。
まばたき。一回。短いやつ。
「……任務遂行可能です。」
ミス・キャスリングが笑った。
デスクから小さなカードを拾い上げた。もう一度肉球スタンプを見た。マイロのサイン。ピーチマティーニNA女王の顔に2度にわたり生物学的災害をもたらした、あの肉球。
カードをピーチマティーニNA女王の財布の内側にそっと入れた。
「さ、行くわよウィスキー。仕事よ。」
彼女は署を出た。青色が一歩ごとに移り変わる。Notting Hillのトートを片方の肩にかけて彼女はさっそうと歩き出した。ATが彼女の肩に乗った。
ウィスキーがその横をトコトコと歩いた。チタンとプラッシュの10キロ。耳は前方。尻尾は規定の高さ。
三人の後ろのデスクの上には、空のガーメントバッグ。ゴールドのリボン。黒いティッシュペーパー。そしてプロフェッショナル・スタンダード部門の贈答品登録簿の受理証。申告済み、記録済み、承認済み。
申告価格:£10。
つづく
次回:「フールを救う 推定無罪のツァラトゥストラ」
本日のミス・キャスリング
- ブレザー: ピンク、尖った肩(武器化)
- ツーピース: 黒地にゴールドの稲妻柄
- ブーツ: 20センチプラットフォーム、黒革、ゴールドスタッズ(パンク)
- ウィッグ: ブロンド、肩丈、一本の乱れもなし
- バッグ: Notting Hillトート(元「偵察資料」)
- 装備: リップスティック型宝石探知機(応用技術部製)
- 回収物: ダイヤモンド、10カラット、Dカラー、フローレス
- マイロ: フレンチブルドッグ、後悔0パーセント
- 犠牲: ピーチマティーニNA女王のお財布(2度目、同一犬)
- 贈り物: メリンデのコート、ミッドナイトブルー/ヴァイオレット(申告価格:£10+スマイル)
ウィスキーのログ
任務記録、シリアルユニット09。
回収対象:ダイヤモンド、1個。回収済み。以上が公式記録である。
回収経路について。対象はフレンチブルドッグ1頭の消化管を経由した。最終的な回収地点は、ピーチマティーニNA女王の財布である。当該財布の被害は2度目であり、加害個体は同一である。再発防止策は提案しない。
同日付の申告記録:贈答品1件。コート。申告価格、£10。プラス、スマイル。
実勢価格との差額について、本ユニットは把握している。ガイドラインに、差額の申告を求める条項は存在しない。存在しないことを4回確認した。
スマイルには金銭的価値がない。よって閾値に影響しない。よって申告記録の対象外である。
作戦指揮官は、コートを着て署を出た。そのときのスマイルも、同様に対象外とする。
対象外であることと、記録しないことは、同義ではない。
本作品はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は著者の創作であり、実在のものとは関係ありません。実在の地名・ブランド・商品が登場する場合は、物語上の演出として使用しています。